趣味性のパフォーマンス
趣味という概念は、「フラメンコ」や「釣り」のように活動内容を表すのではなく、生活上の活動の位置づけを言い表すために用いられる。「趣味として」フラメンコをやっていると言うとき、そこにはフラメンコを仕事ではなく余暇として、楽しみとして、継続的に打ち込んでいることが含意される。シリアスレジャー/カジュアルレジャーというフレームワークの意義は、このことに注意を促す点にある。
実際に活動に取り組む場面では「趣味」という概念はめったに必要にならない。重要なのはそれが「フラメンコ」なのか「釣り」なのか「卓球」なのかであり、活動に取り組んでいる最中にそれが「趣味」なのかは問題にならない。
逆に「趣味」という概念が問題になるのは、活動の生活上の位置づけが問われる場面である。例えば次のような場面があり得るだろう。
- 休日に何をしているのかを説明するとき
- 活動を将来的にどのように続けていくのかを説明するとき
フラメンコに当てはめると、フラメンコを練習している最中に「趣味」について口にすることはないが、ライブの出演頻度について話す際に「セミプロ的な?」と聞かれた際には、「あくまで趣味ではあるんですけれども…」といった応答が必要になる。
活動の生活上の位置づけが問われる場面は、いつどこで生じるか。あるいは、余暇生活を含んだライフスタイルのあり方がコミュニケーションの俎上にのぼるのはいつか。日常会話ではたびたび生じるが、それだけではない。内省的な日記を書いたり、vlogで発信したりする際にも、ライフスタイルは(メディア)コミュニケーションの題材になる。コミュニケーションの宛先は他者である場合も、自分自身である場合もある。
そこで行われるのは、自らの取り組んでいる活動を「趣味」として説明すること、つまり、それが「趣味」であると談話的に構築することである。よりマルチモーダルな表現をするならば、活動の「趣味性」をパフォーマンスすることである。
ここから先は実証的に研究しないとなんとも言えないところだが、「趣味性」のパフォーマンスは明示的に「趣味」を語る場合と、「趣味性」を暗示する場合がある。例えば、前者は「私の趣味」をテーマにした日記やZINEに見られ、後者は「趣味部屋」や「オタク部屋」のルームツアー動画に見られる。おそらく、パフォーマンスが崩れることもあり得る(視聴者によって「趣味性」に疑義が提起された場合など)。本人の中でも自らの「趣味性」が批判的に問い直されることもあるだろう。また、「趣味性」とセットで「おしゃれな暮らし」といった別の生活の側面が同時に表現されることもある。個人が自らの「趣味性」について発信する場合と、出版社のようなメディア企業が「一般化された趣味性」のイメージを表象する場合では、別のパフォーマンスが行われているかもしれない。
現代日本社会で趣味性のパフォーマンスが最も先鋭的に行われているのはおそらく「推し活」に関してであり、それに対する何らかの社会批評が可能かは考えてみたい課題である。推し活は「趣味性のパフォーマンス」自体が趣味になっている活動かもしれない。