趣味とライフスタイルメディア

「やぶさかではない」に依拠した教育

「やぶさかではない」という言葉はもともと「喜んでする」という意味だそうだが、全世代的に「仕方なくする」という意味で取る人が多いようだ。「やぶさか」は「ためらうさま」を表すので、その否定が「めちゃくちゃ嫌なわけではない・・・」と捉えられるのは自然に思える。そして、この「誤用」としての「やぶさかではない」は、教育にとっても重要な言葉だと感じている。

自分はこれまで教育・学習分野で研究する際に「興味」をキーワードにしてきた。興味は一般的に「内発的動機づけ」の一種とされる。興味のあることがらに関して、人は積極的に関わろうとし、本来「やぶさかではない」が意味するように喜んで学ぼうとすると考えられる。その様は興味に突き動かされた学びと表現されることもあり、管理・統制的な近代教育を乗り越えるものとしてしばしば意義づけられる。

だが、実際のところ、興味は学びにとって万能の特効薬ではない。ドイツ・オランダ系の研究者が学習者のライフスタイルやライフヒストリーに埋め込まれた興味について調査している。それによれば、人は気分や打算的な考えから興味対象から距離を取ろうとする存在である。興味があれば常に学びが進むわけではない。

教育において学習者の興味を中心に据えるアプローチは重要で、自分もその立場に与している。だが、その時の教育者の役割は「学習者がのびのびと興味を表現できるようにする」ではないと感じる。学習者にとって興味対象に関わること、特に教育者が期待するような探究的な関わりをすることは面倒くさいものである。ただ、それは忌避するほどの強い否定でもない。教育者の責務とは、そうした学習者との関係性を築くことで、興味対象に関わり学ぶことをけしかけることにあるのではないか。そのとき学習者側に生じる反応は、突き動かされた学びでも、学びからの逃走でもなく、「学ぶこともやぶさかではない」なのではないか、と思う。

実際、メディア教育を実践するうえで、推し活のような学生の興味あるメディア文化と、メディアリテラシー的な探究的態度をつなぐのは、「やぶさかではない」と思える文脈づくりだと感じている。かつてイギリスで成人教育に取り組んだカルチュラルスタディーズの研究者は「階級」を切り口にするアプローチを取ったが、いまの自分が置かれた環境では1990年代以降の「アイデンティティ・ポリティクス」に注目するアプローチが適しているだろうなと考えている。